普段何気なくしていている手をとおしたコミュニケーションについて考える。
情報=感情を発信したり受信する器官として、まず思い浮かぶのは目や耳を思い浮かべる人は多いと思いますが、手を真っ先に思い浮かべる方は多数派ではないのではないでしょうか。しかし、この本を読んだ後では情報=感情と手の関係について新しい発見が見つかるでしょう。
「さわる」「ふれる」とは。
「さわる」「ふれる」とは。
どちらの言葉も英語ではtouchで表現することができますが、日本語では「さわる」「ふれる」と言うように同じような表現でも微妙に性質が異なる言葉があります。その違いについて論じることから始まります。
序章から、なるほどと思ったのが、「さわる」「ふれる」の違いを傷を例に説明されている箇所です。
傷口に「さわる」というと、何だか痛そうな感じがします。さわってほしくなくて、思わず患部を引っ込めたくなる。
引用:手の倫理-伊藤亜紗 序
では、「ふれる」だとどうでしょうか。傷口に「ふれる」というと、状態をみたり、薬をつけたり、さすったり、そっと手当をしてもらえそうなイメージを持ちます。痛いかもしれないけど、ちょっと我慢してみようかなという気になる。
2つの違いについて意識して考えたことなんてなかったので、目から鱗が落ちる感覚でした。
このように手の感覚などを通して行われる様々なコミュニケーションを、哲学や実体験など多様な視点でまとめられています。
「さわる」「ふれる」の倫理
序から始まり第6章まで、性・視覚・道徳・多様性など複数のテーマから手の倫理を考えていくのですが、筆者としては手をとおして自分以外の世界だけでなく、自分審を知ることという考え方が印象的でした。
私たちが生きていく上では、体がなくてはなりません。至極当然なのですが、当然すぎるあまり「さわる」「ふれる」ということに時に無頓着になっているのではないかと思います。どんな体であっても、人として生きている私たちには手の倫理について考えることはきっと価値のある経験になるはずです。
紙の書籍・kindle・Audibleの形態があるので、ぜひ。
筆者はAudibleで聴きました。
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